第2回 たとえばありふれた、空の青い日。-PartB-
私立平安学園。
都内港区にある共学制の高校。中等部、高等部があり、高等部はさらに普通科と特進科に分かれてる。あたしは普通科でのんびりと学生生活を満喫中。特進科は勉強が大変らしいけど。
校門には文化祭用の門が立っていた。二本の四角柱にペイントされているのは、源氏物語絵巻の模写だった。スカートの下にジャージを着ている女子や、Tシャツ姿の生徒が、出番ギリギリまで舞台用の大道具を作ってる。
「演劇、私も観に行くから」
門の前で車を止めて、おねーちゃんは微笑む。おねーちゃんに気がつくと、みんなコソコソ隣の友達に耳打ちしたり、男のコたちは口笛を吹いたりする。妹のあたしから見たって、おねーちゃんはカワイイ。着物だって着慣れてるし、化粧っけのない肌もキレイだし、おだやかに微笑まれるとついこっちまで笑い返したくなるようなタイプなんだ。
「えー来なくていいよ。仕事あるんでしょ」
「大丈夫。せっかく十二単着るんでしょう? 頑張ってらっしゃいね、『若紫』」
「どうせチビっコだもん! ―――送ってくれてありがと、おねーちゃん!」
大きく手を振ると、おねーちゃんはハンドルに腕を乗せて小さく手を振っていた。
腕時計は8時45分を指している。
カギがしまってるかなと思いながら教室の扉に手をかけた。室内から誰かの声が聞こえる。くすくすと笑う少女と、低い少年の声。かまわず教室のドアを開けた。
「げ」
思わず、先に声が出てしまった。
土師武流(はぜたける)は机に座っていた。
鴉みたいな漆黒のすこし長めの髪、ビー玉みたいに邪気無く輝く大きな目。学ランを着ていても体つきがほっそりしているのがわかる。
立っている特進科の女のコを抱き寄せて、その胸に顔をうずめている。
武流の手は彼女のスカートから顕わになった太ももに張りついている。もう一方は、彼女の背中に回され、セーラー服の下、その白い肌にふれている。
刹那の後、女子はようやく我に返り、きゃっとか悲鳴を上げた。武流は何がおかしいのか、あたしに向かってニヤリと笑ってみせた。
あたしは、ようやく目の前の光景を理解して、顔が急激に熱くなるのを感じた。鞄を投げ出すようにして机に置くと、大きな音を立ててドアを閉め、駆けだした。
(だって! え? ちょっと! アレ何!)
思考回路はぐちゃぐちゃ、カオス的スパイラルに突入中。
すでに一般客が入っている校舎は、私服姿の人々、生徒たちでごった返している。
親友の理名があたしに気づいて手を振る。山田理名は肩まで伸びた髪の毛をさらさらと揺らし、好奇心いっぱいな黒い大きな目を見開いた。藁にもすがる勢いで理名に抱きつく。
「美遊、どしたの?」
「は、土師が特進科の女のコとイチャついてた!」
「あー、土師くんかぁ……」
土師武流の女子評価は二分されてる。愛嬌があるからスキよっていう人と、女たらしなのがイヤだとか。成績だけ見れば特進科にいてもおかしくない彼が普通科にいるのは、彼の日頃の行いが悪いせいだって、みんな知ってる。
理名が耳元でささやく。
「でもね、あのヒト、よく美遊のこと見てるんだよ」
意外な言葉に眉をひそめる。クラスメートだけど、ろくに話をしたこともないし、ぶっちゃけ眼中になかったし。
「あたし、あのヒトから話しかけられたことないよ??」
「ううん。よく見てるよー」
うなじを手のひらで包み込んで、小首をかしげる。しばった髪の毛が揺れた。
「絶対、土師クンて美遊がスキなんだよ」
自信満々であたしを指さす理名を、怪訝そうな目で見やる。
「あのヒト、このガッコの何人とヤってるかわかんないよ? それに、あたしは執事がスキだもん」
「あー、そだよね☆」
理名はつまらなそうにため息をついた。
午前10時。
役者たちはステージ脇に待機していた。
演目は源氏物語のパロディ、『平安オペレッタ』。あたしは小柄なので『若紫』を演じる。他にも『桐壷』だの、『葵の上』だの『六条御息所』だのといった女性キャストや、『光源氏』、『薫』、『匂宮』といった男性キャストが泥沼かつコミカルな恋模様を描くというイロイロ破綻が目立つストーリー。
あたしの十二単の襲色目は紅梅に紫。コドモでも乗せてるみたいな重たさ。肩は凝るし、この時期には熱い。なのに、凜としたキモチになる。
光源氏役の坂上真琴が傍らに立つ。ショートカットで長身の彼女は、束帯がよく似合っていた。もともと彼女はオペラ部(女子からはヅカ部と呼ばれてる)に所属、男役で一番人気がある花形スタァ☆なんだ。
「カッコいいね。真琴サン」
「当たり前だろ。あたし、光源氏にも負けないテクはあるよ?」
このヒトが言うと冗談に聞こえない。
『次のプログラムは、2年1組、2組、3組によります、“平安オペレッタ”です』
司会者の声に、あたしたちは唇を引き結んだ。
ステージはキラキラ光る。まるで恒星の大地に足を踏み入れるように、恍惚となる。床が真っ白な光を反射して目がくらんだ。張り詰めたような空気、背筋を伸ばした。
顔を上げてセリフを言おうとして、その光景に目を疑った。
目の前に広がるヒトの群れ。
そしてそれにまとわりつくように存在する、蝶の集団。
黒、青、緑、赤、灰―――様々な色の羽根が揺れる。
隣を見れば、真琴の傍にも蝶がいる。
クラスメートたちの傍にも。そして、あたしにも蝶がいた。
聞こえてくる羽音。きゃらきゃらきゃらきゃら、それは大きな音。
目の前一面に広がる蝶の海。
「……おい? 美遊」
真琴が気遣わしげに声をかける。けれど、それはあたしの耳を素通りした。頭の中に、すさまじい情報量が流れ込んでくる。通り抜けていくだけで、その記録をきちんと見ることはできない。
蝶がたゆたう。鮮血が飛び散る。バスタブの中でぶくぶく息をする子供。眼鏡をかけた男の美しい手。叫び声。恨み言。ぐったりとして動かなくなった誰かの体。白装束の骸骨、そして、―――いつか昔、野原で出会った男。
―――ナイシノカミ、と、彼はささやく。
まぶたが重たい。呼びかけられた声が聞こえたような気がして、目をなんとか押し開ける。
そこには、おねーちゃんの顔があった。
「おねー…ちゃん?」
保健室のベッドに寝かされて、いつのまにかジャージに着替えさせられていた。枕元には蝶がいる。銀色の蝶。オパールみたいな虹色の模様がある。おねーちゃんの傍にも蝶がいた。紫色の蝶だ。
「大丈夫? 美遊、倒れたのよ」
言葉が一瞬、理解できなかった。おねーちゃんの言葉は、まるで遠い世界から聞こえてくる言葉みたいだ。
ケータイのバイブ音が聞こえた。おねーちゃんがバッグからケータイを取り出す。
「麻尋サンだわ。すぐ戻ってくるから、少しだけ待っててね」
言い置いて、おねーちゃんは保健室から出て行った。
もう一度、目を閉じる。執事、仕事中に呼ばれちゃったのか。悪いことしちゃったな。
蝶自体に対する恐怖心は、薄れてきていた。さっきから見ていると、悪いことをするように思えないし。
ふと、何か呟いているのが聞こえてきた。何を言っているのか聞こえないほど小さな声。隣のベッドをカーテンの隙間から伺ってみると、中には男のコがいた。
彼には、蝶がいなかった。
(あ、なんだ。やっぱり蝶の大量発生とかなのかも)
ほっとして、そのまままどろんでいると、男のコがベッドから下り、保健室から出て行った。その時の彼の顔に、怖気だった。昼間だというのに目に光がなく、カサカサになった唇が無造作に動いていた。
気になって、ベッドから下りる。保健室の扉をそっと開けて、見れば、男のコが廊下をよろめきながら歩いている。
「何をしてるんです」
後ろから急に声をかけられて、声を上げそうになったのを必死で抑える。振り返ると執事がいた。やはり、執事にも蝶がいた。真っ黒な蝶。鱗粉だけが黄金色に光っている。
「ほら、早くしないと見失いますよ」
気を取り直し、彼を追った。階段を上り、屋上のドアを開ける。何をするつもりなのだろうと思ったら、手すりに足をかけ始めた。手すりを越えれば5階から1階に真っ逆さまだ。
「って、え! ちょっと!」
彼の腕をとらえようとすると、彼は物凄い力で振り払った。助けを求めて執事を見ると、のんびりとドアにもたれかかっている。
「執事、ちょっと助けてくれてもいいんじゃないの!?」
「私が手を出すのは、恐れ多い」
思わず、執事を見た。彼は煙草に火をつけ、真っ白な煙を美味しそうにふかした。
「ナイシノカミ!」
誰かが疾風みたいにあたしの傍を駆け抜けて、男のコの胸ぐらを掴むと頭突きをした。男のコはその場に崩れ落ちる。
「蝶が狩られてるじゃん。多くなってきてるなー」
土師武流だった。後から、おねーちゃんもおっとりとした足取りでやって来た。
「武流様、ご無事でいらっしゃいますか」
「ああ」
あの。なんでここに土師が? てか、なんでおねーちゃんのこと呼び捨て??
「美遊、あなた蝶が見えるようになったのね」
おねーちゃんがにっこりと笑う。
「あなたの力は『蝶を護る者』―――平安時代から続いてきた、桓武天皇を護り、人々の平穏を護るための力なのよ。あなたの使命は蝶を狩られたヒトたちを護ること。蝶の見えないヒトは、『蝶を狩る者』に蝶を奪われているの。奪われると、このセカイにも、自分にも絶望してしまうんですって」
「ちょ、ちょっと待って! 何言ってるのか……サッパリ」
「そうね。つまり、彼、あなたの婚約者なの」
一瞬、耳を疑った。思わず顔を歪める。
「俺が桓武の直系だからねー。先祖同士が決めてた約束らしいよ」
そんな、軽いカンジで言われても。しかも今から1200年前のネタを、今更持ち出されても。
「あの。ナイシノカミって何?」
「君の先祖の役職の名前」
武流があんまり普通に言うから、本当に頭がくらくらしてきた。
「土師クンだってヤでしょ!? あたしとなんて、ほとんど話したこともないのに!」
「イヤ、別にアリだけど」
執事が吹き出して笑う。いや、これって吹き出してまで笑える所なんですか? てか、あたしがスキなのはアナタなんですけど!
ムカついて、拳を震わせながら叫んだ。
「こんなの、ゼッタイ認めないんだからッ!」
ダッシュして屋上から逃げ出した。
背後から執事の押し殺したような笑い声が聞こえた。
なんであんなサイテイ男をスキになっちゃったんだろうorz
階段を下りながら傍らを見ると、蝶がゆらゆらと飛んでいた。どこか気遣わしげに見えるその仕草に、少しカワイイかもとか思ったりするけど―――そっぽを向いてやった。

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校門には文化祭用の門が立っていた。二本の四角柱にペイントされているのは、源氏物語絵巻の模写だった。スカートの下にジャージを着ている女子や、Tシャツ姿の生徒が、出番ギリギリまで舞台用の大道具を作ってる。
「演劇、私も観に行くから」
門の前で車を止めて、おねーちゃんは微笑む。おねーちゃんに気がつくと、みんなコソコソ隣の友達に耳打ちしたり、男のコたちは口笛を吹いたりする。妹のあたしから見たって、おねーちゃんはカワイイ。着物だって着慣れてるし、化粧っけのない肌もキレイだし、おだやかに微笑まれるとついこっちまで笑い返したくなるようなタイプなんだ。
「えー来なくていいよ。仕事あるんでしょ」
「大丈夫。せっかく十二単着るんでしょう? 頑張ってらっしゃいね、『若紫』」
「どうせチビっコだもん! ―――送ってくれてありがと、おねーちゃん!」
大きく手を振ると、おねーちゃんはハンドルに腕を乗せて小さく手を振っていた。
腕時計は8時45分を指している。
カギがしまってるかなと思いながら教室の扉に手をかけた。室内から誰かの声が聞こえる。くすくすと笑う少女と、低い少年の声。かまわず教室のドアを開けた。
「げ」
思わず、先に声が出てしまった。
土師武流(はぜたける)は机に座っていた。
鴉みたいな漆黒のすこし長めの髪、ビー玉みたいに邪気無く輝く大きな目。学ランを着ていても体つきがほっそりしているのがわかる。
立っている特進科の女のコを抱き寄せて、その胸に顔をうずめている。
武流の手は彼女のスカートから顕わになった太ももに張りついている。もう一方は、彼女の背中に回され、セーラー服の下、その白い肌にふれている。
刹那の後、女子はようやく我に返り、きゃっとか悲鳴を上げた。武流は何がおかしいのか、あたしに向かってニヤリと笑ってみせた。
あたしは、ようやく目の前の光景を理解して、顔が急激に熱くなるのを感じた。鞄を投げ出すようにして机に置くと、大きな音を立ててドアを閉め、駆けだした。
(だって! え? ちょっと! アレ何!)
思考回路はぐちゃぐちゃ、カオス的スパイラルに突入中。
すでに一般客が入っている校舎は、私服姿の人々、生徒たちでごった返している。
親友の理名があたしに気づいて手を振る。山田理名は肩まで伸びた髪の毛をさらさらと揺らし、好奇心いっぱいな黒い大きな目を見開いた。藁にもすがる勢いで理名に抱きつく。
「美遊、どしたの?」
「は、土師が特進科の女のコとイチャついてた!」
「あー、土師くんかぁ……」
土師武流の女子評価は二分されてる。愛嬌があるからスキよっていう人と、女たらしなのがイヤだとか。成績だけ見れば特進科にいてもおかしくない彼が普通科にいるのは、彼の日頃の行いが悪いせいだって、みんな知ってる。
理名が耳元でささやく。
「でもね、あのヒト、よく美遊のこと見てるんだよ」
意外な言葉に眉をひそめる。クラスメートだけど、ろくに話をしたこともないし、ぶっちゃけ眼中になかったし。
「あたし、あのヒトから話しかけられたことないよ??」
「ううん。よく見てるよー」
うなじを手のひらで包み込んで、小首をかしげる。しばった髪の毛が揺れた。
「絶対、土師クンて美遊がスキなんだよ」
自信満々であたしを指さす理名を、怪訝そうな目で見やる。
「あのヒト、このガッコの何人とヤってるかわかんないよ? それに、あたしは執事がスキだもん」
「あー、そだよね☆」
理名はつまらなそうにため息をついた。
午前10時。
役者たちはステージ脇に待機していた。
演目は源氏物語のパロディ、『平安オペレッタ』。あたしは小柄なので『若紫』を演じる。他にも『桐壷』だの、『葵の上』だの『六条御息所』だのといった女性キャストや、『光源氏』、『薫』、『匂宮』といった男性キャストが泥沼かつコミカルな恋模様を描くというイロイロ破綻が目立つストーリー。
あたしの十二単の襲色目は紅梅に紫。コドモでも乗せてるみたいな重たさ。肩は凝るし、この時期には熱い。なのに、凜としたキモチになる。
光源氏役の坂上真琴が傍らに立つ。ショートカットで長身の彼女は、束帯がよく似合っていた。もともと彼女はオペラ部(女子からはヅカ部と呼ばれてる)に所属、男役で一番人気がある花形スタァ☆なんだ。
「カッコいいね。真琴サン」
「当たり前だろ。あたし、光源氏にも負けないテクはあるよ?」
このヒトが言うと冗談に聞こえない。
『次のプログラムは、2年1組、2組、3組によります、“平安オペレッタ”です』
司会者の声に、あたしたちは唇を引き結んだ。
ステージはキラキラ光る。まるで恒星の大地に足を踏み入れるように、恍惚となる。床が真っ白な光を反射して目がくらんだ。張り詰めたような空気、背筋を伸ばした。
顔を上げてセリフを言おうとして、その光景に目を疑った。
目の前に広がるヒトの群れ。
そしてそれにまとわりつくように存在する、蝶の集団。
黒、青、緑、赤、灰―――様々な色の羽根が揺れる。
隣を見れば、真琴の傍にも蝶がいる。
クラスメートたちの傍にも。そして、あたしにも蝶がいた。
聞こえてくる羽音。きゃらきゃらきゃらきゃら、それは大きな音。
目の前一面に広がる蝶の海。
「……おい? 美遊」
真琴が気遣わしげに声をかける。けれど、それはあたしの耳を素通りした。頭の中に、すさまじい情報量が流れ込んでくる。通り抜けていくだけで、その記録をきちんと見ることはできない。
蝶がたゆたう。鮮血が飛び散る。バスタブの中でぶくぶく息をする子供。眼鏡をかけた男の美しい手。叫び声。恨み言。ぐったりとして動かなくなった誰かの体。白装束の骸骨、そして、―――いつか昔、野原で出会った男。
―――ナイシノカミ、と、彼はささやく。
まぶたが重たい。呼びかけられた声が聞こえたような気がして、目をなんとか押し開ける。
そこには、おねーちゃんの顔があった。
「おねー…ちゃん?」
保健室のベッドに寝かされて、いつのまにかジャージに着替えさせられていた。枕元には蝶がいる。銀色の蝶。オパールみたいな虹色の模様がある。おねーちゃんの傍にも蝶がいた。紫色の蝶だ。
「大丈夫? 美遊、倒れたのよ」
言葉が一瞬、理解できなかった。おねーちゃんの言葉は、まるで遠い世界から聞こえてくる言葉みたいだ。
ケータイのバイブ音が聞こえた。おねーちゃんがバッグからケータイを取り出す。
「麻尋サンだわ。すぐ戻ってくるから、少しだけ待っててね」
言い置いて、おねーちゃんは保健室から出て行った。
もう一度、目を閉じる。執事、仕事中に呼ばれちゃったのか。悪いことしちゃったな。
蝶自体に対する恐怖心は、薄れてきていた。さっきから見ていると、悪いことをするように思えないし。
ふと、何か呟いているのが聞こえてきた。何を言っているのか聞こえないほど小さな声。隣のベッドをカーテンの隙間から伺ってみると、中には男のコがいた。
彼には、蝶がいなかった。
(あ、なんだ。やっぱり蝶の大量発生とかなのかも)
ほっとして、そのまままどろんでいると、男のコがベッドから下り、保健室から出て行った。その時の彼の顔に、怖気だった。昼間だというのに目に光がなく、カサカサになった唇が無造作に動いていた。
気になって、ベッドから下りる。保健室の扉をそっと開けて、見れば、男のコが廊下をよろめきながら歩いている。
「何をしてるんです」
後ろから急に声をかけられて、声を上げそうになったのを必死で抑える。振り返ると執事がいた。やはり、執事にも蝶がいた。真っ黒な蝶。鱗粉だけが黄金色に光っている。
「ほら、早くしないと見失いますよ」
気を取り直し、彼を追った。階段を上り、屋上のドアを開ける。何をするつもりなのだろうと思ったら、手すりに足をかけ始めた。手すりを越えれば5階から1階に真っ逆さまだ。
「って、え! ちょっと!」
彼の腕をとらえようとすると、彼は物凄い力で振り払った。助けを求めて執事を見ると、のんびりとドアにもたれかかっている。
「執事、ちょっと助けてくれてもいいんじゃないの!?」
「私が手を出すのは、恐れ多い」
思わず、執事を見た。彼は煙草に火をつけ、真っ白な煙を美味しそうにふかした。
「ナイシノカミ!」
誰かが疾風みたいにあたしの傍を駆け抜けて、男のコの胸ぐらを掴むと頭突きをした。男のコはその場に崩れ落ちる。
「蝶が狩られてるじゃん。多くなってきてるなー」
土師武流だった。後から、おねーちゃんもおっとりとした足取りでやって来た。
「武流様、ご無事でいらっしゃいますか」
「ああ」
あの。なんでここに土師が? てか、なんでおねーちゃんのこと呼び捨て??
「美遊、あなた蝶が見えるようになったのね」
おねーちゃんがにっこりと笑う。
「あなたの力は『蝶を護る者』―――平安時代から続いてきた、桓武天皇を護り、人々の平穏を護るための力なのよ。あなたの使命は蝶を狩られたヒトたちを護ること。蝶の見えないヒトは、『蝶を狩る者』に蝶を奪われているの。奪われると、このセカイにも、自分にも絶望してしまうんですって」
「ちょ、ちょっと待って! 何言ってるのか……サッパリ」
「そうね。つまり、彼、あなたの婚約者なの」
一瞬、耳を疑った。思わず顔を歪める。
「俺が桓武の直系だからねー。先祖同士が決めてた約束らしいよ」
そんな、軽いカンジで言われても。しかも今から1200年前のネタを、今更持ち出されても。
「あの。ナイシノカミって何?」
「君の先祖の役職の名前」
武流があんまり普通に言うから、本当に頭がくらくらしてきた。
「土師クンだってヤでしょ!? あたしとなんて、ほとんど話したこともないのに!」
「イヤ、別にアリだけど」
執事が吹き出して笑う。いや、これって吹き出してまで笑える所なんですか? てか、あたしがスキなのはアナタなんですけど!
ムカついて、拳を震わせながら叫んだ。
「こんなの、ゼッタイ認めないんだからッ!」
ダッシュして屋上から逃げ出した。
背後から執事の押し殺したような笑い声が聞こえた。
なんであんなサイテイ男をスキになっちゃったんだろうorz
階段を下りながら傍らを見ると、蝶がゆらゆらと飛んでいた。どこか気遣わしげに見えるその仕草に、少しカワイイかもとか思ったりするけど―――そっぽを向いてやった。

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第1回 たとえばありふれた、空の青い日。-PartA-
いつのまにか、バスルームに黒い蝶がいた。
―――いや、本当にそれは蝶なのだろうか。
普通の蝶が持っている、光沢ある絹のような羽ではない。繊細な薄い硝子で作られたような透明感。触覚もない。羽を動かすたび、鬱金色の鱗粉のようにも見える燐光が、窓からこぼれる真っ白な光に溶けていく。
それは、まぎれもなく善きもの、神に祝福された聖なるもの。
耳をくすぐる微かな羽音に、少女はその黒真珠のような瞳を潤ませ、バスタブの中で跪く。
肩まで伸びた茶色のウェーブがかった髪は、水に濡れた部分だけ濃くまっすぐ伸びている。まだ胸のふくらみもない少女は、目を潤ませて満面の笑みを浮かべた。無邪気に手を伸ばし、蝶にふれる。ほんのりとあたたかい。ちょうど人肌ぐらいの温度。指先からゆったりと広がる蝶のおだやかな感情に、カラダが震える。くすぐったくて、鈴が鳴るように笑った。
朝の光は少女をやさしく包み込み、静寂がバスタブに張られた水に波紋を投げる。
(彼女は知らない。だけどあたしは知ってる。逃げなければ『狩られてしまう』)
そのとき、少女の耳には確かに聞こえた。水滴と羽音に混じって、混沌を含む怪音。
バスタブの中で立ち上がり、ドアの向こうをその大きな黒水晶の瞳で見つめる。
弧を描き、赤い血がドアの磨りガラスに飛散する。
刹那、心臓が止まった。凍り付いたように動けず、少女は目を見開いたまま直立している。
ドアが、ゆっくりと、開いた。
隙間から覗く目だけが光を帯びていた。
黒目は灰色に染まり、白目は血走って暗緑色がかっている。開きっぱなしの口は、口角が異常に上がって笑っているように見える。
尋常な者ではない、と少女はようやく理解した。
骨と皮だけになった痩せぎすの男は、ぎょろりと少女を睨みつける。
***
目を見開くと同時に、大きく息を吸い込んだ。
朝の光が、やわらかく肌にふれている。
心臓が唸るように強く脈打って、血管が痛い。
いつのまにか下敷きになってた、ちりめん生地のクマのぬいぐるみを引っ張り出す。
午前5時。夜が太陽のためにふわふわのベッドを作り出す時間。
時々見る夢。目が覚めてから思い出そうとすると、テレビの砂嵐みたいにノイズが混じって、よくわからなくなってしまう。
あたし、葛城美遊(かつらぎみゆう)。16歳、私立平安学園高等部普通科2年生。145センチ、43キロのちょっと小柄なタイプ。趣味は帯留集め☆ 小さい頃から着物とか「和」モノがダイスキ。
浴衣の襟を正して、胸まで伸びた茶色いクセっ毛に軽く櫛を入れる。
キッチンへ行くと、ダイニングルームにはすでに彼がいた。
眼鏡をかけ、黒いスレンダーなスーツに身を包み、新聞を読んでいる。短く切られた前髪はワックスでクをつけて、髭はしっかり処理済み。イヤミなくらい、朝からカンペキな男。
だけど、出社前のこの時間だけ、ネクタイを少しゆるめて、シャツの一番上のボタンを開けている。白くてキレイな首筋が見えて、ちょっとドキドキする。
「おはよ、執事(バトラー)」
執事は切れ長の目を上げて、背筋を伸ばす。
「おはようございます」
執事は今年36歳。あたしとは20歳差なんだけど。
あたし、彼に恋してます♪
ホントは執事じゃないんだよ。あたしが勝手に呼んでるだけ(だって、執事っポイんだもんw 執事、かなり萌えw)。宮本麻尋っていう親戚なんだ。あたしとおねーちゃんが女だけで東京に住むのは危ないっていうので、東京に住んでた彼と同居することになったんだって。
両親は、交通事故で亡くなったんだって。その頃まだ6歳で、ほとんどその頃のことを覚えてないけど。
午前5時30分。朝食を執事と一緒に食べる。
きつね色に焼いたパン、昨日煮詰めたマーマレードジャム、バターで炒めたスクランブルエッグ、カリカリのベーコン。そして、ちょっと苦めの珈琲。
「お味はいかが?」
パンをかじる執事に尋ねてみる。
「さて」
執事は切れ長の目であたしを見上げると、唇を片端だけ持ち上げる。
こんなふうに、意地悪く微笑むのが彼の日課。ちょっとヤなカンジ。でも、こんなところがスキだったりするんだけど。
午前6時。執事の出社を見送ってから二度寝。
目を閉じて。もう一度、開けてみた。急に空が明るくなったような気がする。
目覚ましの針が指しているのは、午前8時。
「―――ッて!」
飛び起きるとシーツをはね除け、浴衣を脱ぎ捨てるとセーラー服に袖を通した。胸元の赤いリボンを器用に結び、長くふわふわした栗色の髪の毛を、ドレッサーの前で素早く二つにしばって上の方でくくる。
「ちょっと! おねーちゃん、なんで起こしてくれないのーっ」
「あら、起きたのね」
ドアの外からおねーちゃんののんびりとした声が聞こえた。苛立ちにまかせて部屋のドアを思い切り開ける。
葛城茉莉(まつり)、28歳。独身(そういえば彼氏がいるって話、聞いたことないなぁ)。切り揃えられた前髪、背中まである後ろ髪は1つに束ねて上の方でくくっている。あたしより背がゼンゼン高いから、見上げなくちゃいけないのが癪。ゆったりと着物を着崩し、微笑を浮かべている。
「7時半には起こしてって言ったよねッ?」
「あら。だって、起きてくれなかったんですもの」
よく見ると、おねーちゃんが着ているのはお気に入りの大島紬だった。
「あああーっ! なんっであたしの大島紬着てるの!」
「とりあえず、早く着替えたほうがいいんじゃないかしら」
まだスカートをはいていなかったことに気がついて、ぎゃああと叫び声を上げた。ドアを閉めると、廊下からウフフとか笑う声が聞こえてちょっとムカついた。濃紺のプリーツスカートをはいて、ピンクのグロスだけ塗って出る。
「もう行かなくてもいいかなー。文化祭」
おねーちゃんが入れてくれた、本日2杯目の珈琲を飲む。半分ウトウトして、マグカップに頭をぶつけそうになった。
「何言ってるの。―――あら。大変、こんな時間。準備は大丈夫かしら?」
「ハイ。今日もヨロシクです」
おねーちゃんの愛車は、バーベラ・レッドのBMW。おねーちゃんは着物にバレエシューズという出で立ちで運転席に乗り込んだ。超高価な着物の衣擦れの音が気になりつつも、助手席に座ってシートベルトを締める。車は学校へ向け、勢いよく滑り出した。
新緑はゆるゆると光をとかして、萌葱色にそまっていく。窓を開けると、風の色は清々しいほど碧い。一年の中でも、この時期は格別にスキ。
国道15号線は、海が真っ二つに割れたみたいにビルに囲まれている。
東京タワーも、建設中のビルも、会社へ急いでる人たちも、平凡でおだやか。こんなに空が青いんだし、ピクニックにでも行けたら楽しいだろうな。

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いつのまにか、バスルームに黒い蝶がいた。
―――いや、本当にそれは蝶なのだろうか。
普通の蝶が持っている、光沢ある絹のような羽ではない。繊細な薄い硝子で作られたような透明感。触覚もない。羽を動かすたび、鬱金色の鱗粉のようにも見える燐光が、窓からこぼれる真っ白な光に溶けていく。
それは、まぎれもなく善きもの、神に祝福された聖なるもの。
耳をくすぐる微かな羽音に、少女はその黒真珠のような瞳を潤ませ、バスタブの中で跪く。
肩まで伸びた茶色のウェーブがかった髪は、水に濡れた部分だけ濃くまっすぐ伸びている。まだ胸のふくらみもない少女は、目を潤ませて満面の笑みを浮かべた。無邪気に手を伸ばし、蝶にふれる。ほんのりとあたたかい。ちょうど人肌ぐらいの温度。指先からゆったりと広がる蝶のおだやかな感情に、カラダが震える。くすぐったくて、鈴が鳴るように笑った。
朝の光は少女をやさしく包み込み、静寂がバスタブに張られた水に波紋を投げる。
(彼女は知らない。だけどあたしは知ってる。逃げなければ『狩られてしまう』)
そのとき、少女の耳には確かに聞こえた。水滴と羽音に混じって、混沌を含む怪音。
バスタブの中で立ち上がり、ドアの向こうをその大きな黒水晶の瞳で見つめる。
弧を描き、赤い血がドアの磨りガラスに飛散する。
刹那、心臓が止まった。凍り付いたように動けず、少女は目を見開いたまま直立している。
ドアが、ゆっくりと、開いた。
隙間から覗く目だけが光を帯びていた。
黒目は灰色に染まり、白目は血走って暗緑色がかっている。開きっぱなしの口は、口角が異常に上がって笑っているように見える。
尋常な者ではない、と少女はようやく理解した。
骨と皮だけになった痩せぎすの男は、ぎょろりと少女を睨みつける。
***
目を見開くと同時に、大きく息を吸い込んだ。
朝の光が、やわらかく肌にふれている。
心臓が唸るように強く脈打って、血管が痛い。
いつのまにか下敷きになってた、ちりめん生地のクマのぬいぐるみを引っ張り出す。
午前5時。夜が太陽のためにふわふわのベッドを作り出す時間。
時々見る夢。目が覚めてから思い出そうとすると、テレビの砂嵐みたいにノイズが混じって、よくわからなくなってしまう。
あたし、葛城美遊(かつらぎみゆう)。16歳、私立平安学園高等部普通科2年生。145センチ、43キロのちょっと小柄なタイプ。趣味は帯留集め☆ 小さい頃から着物とか「和」モノがダイスキ。
浴衣の襟を正して、胸まで伸びた茶色いクセっ毛に軽く櫛を入れる。
キッチンへ行くと、ダイニングルームにはすでに彼がいた。
眼鏡をかけ、黒いスレンダーなスーツに身を包み、新聞を読んでいる。短く切られた前髪はワックスでクをつけて、髭はしっかり処理済み。イヤミなくらい、朝からカンペキな男。
だけど、出社前のこの時間だけ、ネクタイを少しゆるめて、シャツの一番上のボタンを開けている。白くてキレイな首筋が見えて、ちょっとドキドキする。
「おはよ、執事(バトラー)」
執事は切れ長の目を上げて、背筋を伸ばす。
「おはようございます」
執事は今年36歳。あたしとは20歳差なんだけど。
あたし、彼に恋してます♪
ホントは執事じゃないんだよ。あたしが勝手に呼んでるだけ(だって、執事っポイんだもんw 執事、かなり萌えw)。宮本麻尋っていう親戚なんだ。あたしとおねーちゃんが女だけで東京に住むのは危ないっていうので、東京に住んでた彼と同居することになったんだって。
両親は、交通事故で亡くなったんだって。その頃まだ6歳で、ほとんどその頃のことを覚えてないけど。
午前5時30分。朝食を執事と一緒に食べる。
きつね色に焼いたパン、昨日煮詰めたマーマレードジャム、バターで炒めたスクランブルエッグ、カリカリのベーコン。そして、ちょっと苦めの珈琲。
「お味はいかが?」
パンをかじる執事に尋ねてみる。
「さて」
執事は切れ長の目であたしを見上げると、唇を片端だけ持ち上げる。
こんなふうに、意地悪く微笑むのが彼の日課。ちょっとヤなカンジ。でも、こんなところがスキだったりするんだけど。
午前6時。執事の出社を見送ってから二度寝。
目を閉じて。もう一度、開けてみた。急に空が明るくなったような気がする。
目覚ましの針が指しているのは、午前8時。
「―――ッて!」
飛び起きるとシーツをはね除け、浴衣を脱ぎ捨てるとセーラー服に袖を通した。胸元の赤いリボンを器用に結び、長くふわふわした栗色の髪の毛を、ドレッサーの前で素早く二つにしばって上の方でくくる。
「ちょっと! おねーちゃん、なんで起こしてくれないのーっ」
「あら、起きたのね」
ドアの外からおねーちゃんののんびりとした声が聞こえた。苛立ちにまかせて部屋のドアを思い切り開ける。
葛城茉莉(まつり)、28歳。独身(そういえば彼氏がいるって話、聞いたことないなぁ)。切り揃えられた前髪、背中まである後ろ髪は1つに束ねて上の方でくくっている。あたしより背がゼンゼン高いから、見上げなくちゃいけないのが癪。ゆったりと着物を着崩し、微笑を浮かべている。
「7時半には起こしてって言ったよねッ?」
「あら。だって、起きてくれなかったんですもの」
よく見ると、おねーちゃんが着ているのはお気に入りの大島紬だった。
「あああーっ! なんっであたしの大島紬着てるの!」
「とりあえず、早く着替えたほうがいいんじゃないかしら」
まだスカートをはいていなかったことに気がついて、ぎゃああと叫び声を上げた。ドアを閉めると、廊下からウフフとか笑う声が聞こえてちょっとムカついた。濃紺のプリーツスカートをはいて、ピンクのグロスだけ塗って出る。
「もう行かなくてもいいかなー。文化祭」
おねーちゃんが入れてくれた、本日2杯目の珈琲を飲む。半分ウトウトして、マグカップに頭をぶつけそうになった。
「何言ってるの。―――あら。大変、こんな時間。準備は大丈夫かしら?」
「ハイ。今日もヨロシクです」
おねーちゃんの愛車は、バーベラ・レッドのBMW。おねーちゃんは着物にバレエシューズという出で立ちで運転席に乗り込んだ。超高価な着物の衣擦れの音が気になりつつも、助手席に座ってシートベルトを締める。車は学校へ向け、勢いよく滑り出した。
新緑はゆるゆると光をとかして、萌葱色にそまっていく。窓を開けると、風の色は清々しいほど碧い。一年の中でも、この時期は格別にスキ。
国道15号線は、海が真っ二つに割れたみたいにビルに囲まれている。
東京タワーも、建設中のビルも、会社へ急いでる人たちも、平凡でおだやか。こんなに空が青いんだし、ピクニックにでも行けたら楽しいだろうな。

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小さい頃は、お姫サマに憧れたこともありましたケドね。
***
鳥が鳴いている。
真っ白な光が、カーテンの隙間からあわく漏れている。
深町陽花(はるか)は、朝に似つかわしくないような表情で、呆然としていた。口の端をぐいと下げて、顔はすっかり青ざめている。
シーツの下の体は裸。隣にはやっぱり何も着ていない男の肌が見える。
(なにコレ―――!!)
急に起き上がると、針で突かれたような痛みが頭に走った。
何とかベッドのそこらへんに落ちている服をかき集め、よろめきながら着替える。男の顔を見る間もなく、逃げるように見知らぬ部屋から出た。
今日が平日じゃなくてよかった。
外に出ると、ドコモタワーが見える。駅に向かおうとして見つけた、近くにあったホテルのトイレに駆け込む。ちょっと髪の毛が乱れていたので、バッグからポーチを取り出した。
昨日、何があったのか。
この頭の痛みは、おそらく二日酔いだろうし。
陽花は洗面台にもたれかかり、ピカピカ光る大理石の天井を仰いだ。
昨日。
落ちたペンを拾おうとして、ストッキングが伝線していることに気がついた。
黒いストッキングだと、伝染が目立つからイヤだ。ストックがどこかにあったハズ。
陽花は机の引き出しを開けた。お菓子と生理用品、メイク道具、スタイリング剤。他のものはスナオに見つかってくれるのに、ストッキングだけがいくら探っても見つからない。
「深町さん!?」
総務部主任・木下玲良(れいら)がヒステリックに声を上げる。
陽花は右足を隠すようにデスクのそばを歩いて、主任のデスクまで急ぐ。
「コレ、計算間違ってるじゃない」
さっきExcelで作った書類をペラペラと仰がれる。怒られるようなことをしてる自分が悪いことはわかっているけれど、もうちょっとだけ声をひそめてほしい。社員の視線がイタイ。
「申し訳ございません」
「もう、申し訳ございませんじゃ話にならないのよ! 言えば済むってモンダイじゃないんだからね。単純ミスなんだから、防ぎようがあるでしょう。ちゃんと心がけないと」
サッパリした女性なので、ヒステリックに叫んだりはするけれど、一度叱るとそれ以上は言わない。
そそくさと席に戻り、しょげてしまったテンションを上げるため、すこし気分転換をとメールボックスを開く。新着メッセージの中に、高校時代の友達、松下歩(あゆみ)からメールがあった。
お疲れ様。
今晩、暇な時間ある?
よかったら一緒にご飯どうかな。
フリーな野郎もいるから、ぜひぜひ(*゜▽゜)ノ
堂々と会社のメールをプライベートに使うあたり、ホントにおバカなコだ。
苦笑しつつ、OKと返す。
最近、自宅と会社の往復ばかりでちょっと悶々としていたから、ちょうどよかった。
二週間前の日曜は、大学時代の友達の結婚式だった。新郎も新婦も、サークルでよく一緒に遊びに行っていた。ただ、新婦は知らない。新郎は、陽花が一年前に振った元カレだった。気づかない新婦はうれしそうに、陽花にブーケを渡してくれた。シアワセ絶頂の彼女の笑顔。新郎は気まずそうに陽花から目をそらすのだった。
彼は、よっぽど結婚願望があったのだと思う。
一年前、彼からプロポーズを受けた。まだ仕事も全然できないし、貯金もないのに結婚なんてできないと言ったら、別れようと言われて、コレだ。
結婚なんて羨ましくないはずなのだけれど(まだ24歳、遊びざかりだよ??)。
あれから彼氏なんてできやしない(出会いもないし、出会う場所自体ないし)。
(あーあ、なんか憂鬱)
小さくため息をついた。
新宿の個室で、歩と陽花、そして歩が狙っていると思われる男A(名前はすでに忘却の彼方)、それからおそらく陽花が多大な迷惑をかけた男Bと飲んだ。久々に羽目をはずして飲んだから、芋焼酎がイヤに美味しく感じた。
「高校の時、どんなだったの?」
男Bが聞いた。浮かれた様子で歩が言う。
「頭よかったんだよー。陽花」
高校の頃のことなんて、今や思い出したくもない。あの頃、成績がかなりよかったので浮かれ絶頂だった。
「じゃ、仕事できるんじゃない?」
「今は落ちこぼれ。ゼンゼン会社の役に立ってないし」
「いいじゃん、女だし」
男Aの言葉がいちいち気に入らず、陽花はビールのジョッキを音を立ててテーブルに置いた。
「女とかそういうのでくくらないで。そういうのはイヤなの」
男Aは明らかに引いたようだった。嫌悪に満ちた目で、陽花を見る。
「うっわ熱血ー」
もう一言余計なことを言ったら、ゼッタイに殴ると思った瞬間、からからと脳天気な笑い声が聞こえた。
「いいじゃない、熱血。俺、甲子園球児だったから、そういうのスキだよ」
にっこりと笑って、男Bは言った。
女を堕とすための言葉かなと思ったんだけど、なんとなくそんなふうにも見えなくて、好感がもてた。
「そっかなぁー。俺、仕事ばっかの女って引いちゃうんだよね」
「お互い様ね」
陽花は極上の微笑みを返した。
仕事ばっかじゃない、と言い返したいけれど、言い返せない自分が悔しかった。ご飯だって仕事で疲れてしまって作るのが面倒で、コンビニですませてしまうし。恋愛なんてしばらくご無沙汰してるし。仕事だって、全然役に立っていないし。
鬱々としてきたから、それからはヤケになったように飲み続けた。結局最後はへろへろになってしまい、男Bに連れられて彼の家に行った。おぼろげながら、自分から男にキスをしたことを思い出した。キスしてみたら、とろけちゃいそうなくらい気持ちよくて。
(―――って!)
名前も知らない男とセックスするなんて、ありえない。
こんなこと、今までなかったのに。
何、今更大学デビューした大学生みたいなことやってんだか。
鏡の中の自分の顔が真っ赤になっている。自分事ながら、恥ずかしくてうつむいた。ありがたいことに、彼は同じ会社でもないしおそらくもう二度と会うこともないだろうし。
犬にかまれたと思って忘れよう。
心中、複雑なものが吹き荒れているけれど、とりあえず見ないふりを決め込むことにした。
土曜日はいつも夕方、ジムで汗を流す。シャワーを浴びて、タオルで髪を拭いていると、同期の田中郁から携帯に電話がかかってきた。郁はラグジュエルやアプワイザー・リッシェなんかのAneCanブランド愛好者で、やっぱりヘアスタイルもロングヘアの巻き髪だ。細身でもともとカワイイ顔立ちのコなので、同性としてはあまりお近づきになりたくないタイプだったりする。
どこかへ飲みに行こうと言うので、行きつけのバーを指定して待ち合わせた。
池袋にある半地下の店。薄暗い店内ではF1の映像が流れている。
「いらっしゃい」
マスターが声をかけてくれた。マスターは人なつこい人で、ギター好きな30代後半の男性だ。カウンターに座って、ジントニックとフライ&チップスを頼む。
「これ、アロンソ途中で棄権しちゃったヤツでしょー」
「そうなんだよね。惜しかったよね、あと少しで抜かせそうだったのに」
ちょうど、アロンソのマシンが故障でピットインしようとしている。
「あーあ~」
いかにも無念な声を出してため息をはくと、隣に男が座った。顔を上げると、男は笑いかけてきた。
「F1好きなの? 陽花」
どこかで見た顔。
記憶をたぐり寄せて、ほどいていく。
男は怪訝な表情をして、口元を手で覆った。
「まさか、覚えてない……? とか?」
その困ったような表情に、見覚えがある。キスをして体を離した後の。
「あ……!」
「今朝は急にいなくなるから、びっくりした」
「あの、ゴメンなさい!」
「俺の名前、覚えてないでしょ」
こっちから仕掛けておいて、名前まで覚えていないっていうのはかなり情けない。どう返していいのか思案してうつむいていると、爽やかな声で彼は言った。
「俺、和泉直人っていうの」
その時、郁が店内に入ってきた。今日は白いシフォンスカートにうすいピンクのスプリングコートを羽織っている。
「遅れちゃってゴメンね、陽花」
郁は直人を見て、一瞬驚いたような顔をした。直人もまた、郁を見つめていた。その雰囲気は、おそらく昔何かあったんだろうなと想像させるに十分だった。
「……知り合い?」
平静を装って、陽花は尋ねる。
「うん」
そのあと、直人は用があると言って外へ出て行ってしまった。
二人きりになって、郁を見やると、彼女は泣きそうな表情でうつむいていた。
「あのヒト、わたしの元カレなの。去年、振られちゃって……まだスキなんだけどね」
郁は言った。
(カミサマ……! どうしてこんなややこしいことに)
小さい頃、確かにお姫サマのハナシ、たとえば「シンデレラ」とか「ローマの休日」とか憧れていた。あんなにうまく現実転ぶものではないって実感してるのは、実はようやくこの年になってからだったりする。
自分の生活費を自分で稼ぐようになって、まわりのコたちが結婚やら何やら手をつくして『イイ』男の争奪戦をしている中、魔法使いのおばあさんもいるワケはないし、自分が特別なステイタスを持ってるワケでもないし。だから、自分で頑張って手に入れなくちゃねって、そう思う。
しばらく郁のグチに付き合って、深夜12時を回るころ、携帯がポケットの中で揺れた。
「ゴメン、電話……」
「いいよ、どうぞ」
知らない番号からの電話。
「はい」
『あ、陽花? まだ飲んでる…かな』
やさしい口調。直人だった。携帯から漏れた声でわかったようで、隣に座っている郁の顔色が変わっていく。
「……いいよ、行ってくれば?」
「ゴメン、あとでかけ直す。ちょっと待って! 郁!」
郁は陽花のほうを振り返らず、そのまま帰ってしまった。
「って。チェックはあたしなのかな、コレ……?」
マスターが苦い表情で頷いた。
なんだか、追いかける気にもならない。
「マスター、女が頑張るって、どう思う?」
「いいじゃないですか。カッコよくて」
「なんかね、頑張れば頑張るほどへこむことが多いのよ。気のせい?」
「気のせいじゃないですよ。落ち込まないってことは、何もしてないっていうのと同じなんですから。誇らしく思えばいいじゃないですか。傷だらけのほうがカッコいいですよ」
TVでは、アロンソのインタビューが流れている。
確かに、カッコよかった。
急に、頭を誰かに小突かれた。
「いた!」
弾かれたように上を見る。
「また泣いてる」
直人がいた。
「何でここにいるの?」
「何かあったんだろうなと思って。彼女に何か言われたんでしょ?」
こんなに都合のいいハナシ、あるわけがない。
だって、たった一晩で。
「あの、どうしてこんなに構ってくれるの?」
お手軽な女だと思われたんだとしたら、イヤだな。
もしそう思われているんだったら、かなりショックだけど。
「ほんとは、さびしいんだって言ってたのは陽花でしょう」
「……え?」
「泣いてたから、俺はかわいいなと思ったんだよ」
「……しらない、そんなの」
「いいよ。俺、覚えてるから」
そう言って、彼は陽花にキスをした。
マスターは見ないフリをして、後ろを向いてグラスの整理をはじめた。
憂鬱な気持ちも、報われなかった気持ちも、全部すくい上げられたようで。
陽花は、なんだか泣いてしまいそうになった。
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じゃっきん、と音がした。
今までに聞いたことのない、とても硬い花の茎をハサミで切るときの音を、もっと大げさにしたような――いたたまれない音。
振り向いてみれば、後ろに並んでいたスーツ姿の男がゆっくりと前屈みになって、倒れていく。男には、頭がなかった。倒れた首元から、今ようやく自分がされたことに気がついたようにどす黒い血が飛んだ。
足もとに血だまりができていく。音もなく追いつめてくる、よからぬもののように。頭の中で不快な金属音の割れるような音が響く。不協和音。ああ、殺されるんだろうか。
顔を上げても、恐る恐る見回してみても誰もいない。誰だ。誰か、いるんだろう。
目を覚まして、悲鳴をあげそうになった。視界に広がるのは、青空。白い雲がのんびりと流れていく。背中には土の感覚。眠気を誘うような香りが思考を曖昧にする。ラベンダーの花畑の中に埋もれて、ぼくは眠っていたらしい。どうして、こんなところにいるんだ。昨日のことを思い出そうとすると、頭が痛くてよくわからない。家に戻った覚えはなかった。つまり―――いや、つまりなんてのは、もっと情報があるときに使う言葉だ。記憶の最後は何だったか?
起き上がると、花畑の向こうに白いワンピースを着た少女が立っていた。花を脇で抱えた籠に摘み取っていく。ハープの弦のような金髪の髪がさらさらと揺れている。彼女はぼくに気がついて、そして笑ったのだ。口角を奇妙に高く上げて、真っ白な犬歯が歯茎まで見えた。背筋が急に氷を押しつけられたように縮んだ。とっさに立ち上がると、その場から逃げるように駆けだした。スーツを着たまま寝ていたらしいぼくは、頭を掻きむしろうとした。すると、手は宙を舞った。
ぼくには、頭がなかった。
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今までに聞いたことのない、とても硬い花の茎をハサミで切るときの音を、もっと大げさにしたような――いたたまれない音。
振り向いてみれば、後ろに並んでいたスーツ姿の男がゆっくりと前屈みになって、倒れていく。男には、頭がなかった。倒れた首元から、今ようやく自分がされたことに気がついたようにどす黒い血が飛んだ。
足もとに血だまりができていく。音もなく追いつめてくる、よからぬもののように。頭の中で不快な金属音の割れるような音が響く。不協和音。ああ、殺されるんだろうか。
顔を上げても、恐る恐る見回してみても誰もいない。誰だ。誰か、いるんだろう。
目を覚まして、悲鳴をあげそうになった。視界に広がるのは、青空。白い雲がのんびりと流れていく。背中には土の感覚。眠気を誘うような香りが思考を曖昧にする。ラベンダーの花畑の中に埋もれて、ぼくは眠っていたらしい。どうして、こんなところにいるんだ。昨日のことを思い出そうとすると、頭が痛くてよくわからない。家に戻った覚えはなかった。つまり―――いや、つまりなんてのは、もっと情報があるときに使う言葉だ。記憶の最後は何だったか?
起き上がると、花畑の向こうに白いワンピースを着た少女が立っていた。花を脇で抱えた籠に摘み取っていく。ハープの弦のような金髪の髪がさらさらと揺れている。彼女はぼくに気がついて、そして笑ったのだ。口角を奇妙に高く上げて、真っ白な犬歯が歯茎まで見えた。背筋が急に氷を押しつけられたように縮んだ。とっさに立ち上がると、その場から逃げるように駆けだした。スーツを着たまま寝ていたらしいぼくは、頭を掻きむしろうとした。すると、手は宙を舞った。
ぼくには、頭がなかった。
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